はじめに
2020年に始まった新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックは、日本の産科医療現場に大きな試練を与えました。「感染疑いの妊婦さんの受け入れはどうする?」「健診回数を減らしても大丈夫?」「立ち会い分娩は?」現場で混乱した先生方も多いはずです。
今回は、パンデミックの教訓を経て新たに策定された産婦人科診療ガイドライン 「パンデミック時の対応や妊娠分娩管理」を解説します。前回の災害医療との違いを理解し、長期戦となる感染症流行下でどう母児を守るか、その戦略を整理しましょう。
1. パンデミックと大規模災害、何が違う?
地震などの大規模災害と、パンデミックの最大の違いは、「広域性」と「持続性」です。
- 大規模災害: 被災地以外からの人的・物的支援が期待できる(局所的・一時的)。
- パンデミック: 全国どこも手一杯で、外部からの応援が期待しにくい。さらに年単位で続く(広域的・長期的)。
そのため、パンデミック対応では「外からの助けを待つ」のではなく、「自分たちのリソースをいかに効率化し、守り抜くか」という視点が重要になります。
2. 鉄壁の守り:標準予防策(スタンダード・プリコーション)
感染対策の基本は、平時から行っている「標準予防策」です。
標準予防策とは
「すべての患者の血液、体液、分泌物、排泄物、損傷した皮膚、粘膜は感染の可能性がある」と見なして対応する予防策です。
- 手指衛生: アルコール消毒、流水と石鹸。
- 個人防護具(PPE): サージカルマスク、手袋、ガウン、フェイスシールド。
- 環境整備: 手が触れる場所の清拭(エタノール、次亜塩素酸ナトリウムなど)。
病原体別対策の追加
パンデミック時には、これに加えて「経路別予防策」(飛沫・接触・空気感染対策)を上乗せします。
臨床のポイント: 分娩時や吸引処置など、エアロゾルが発生しやすい場面では、通常のサージカルマスクではなくN95マスクの使用を検討します。COVID-19では眼球からの感染例も報告されたため、フェイスガードの重要性が再認識されました。
3. 妊婦健診の柔軟な運用とICTの活用
「感染が怖いから病院に行きたくない」という妊婦さんに対し、どう安全を担保するか。
- 受診間隔の調整: 一律の基準はありませんが、ローリスク妊婦では状況に応じて間隔を空ける柔軟性が求められます。
- オンライン診療(遠隔医療): ICTを利用した代替補完が注目されています。
- 助産師によるオンライン保健指導。
- 自宅での血圧測定や、ウェアラブルデバイスを用いた胎児心拍監視の試み。
忘れがちな「心のケア」
外出自粛や里帰り出産の制限、孤独な育児は、妊産婦のメンタルを直撃します。大規模災害後と同様、産後うつのリスクが高まるため、対面診療を減らす代わりに電話やオンラインでの密なコミュニケーションが推奨されます。
4. 正しい情報の取捨選択:リテラシーを磨く
パンデミック初期は「インフォデミック(デマの氾濫)」も問題となりました。 最新かつ信頼できる情報を得るための、医師としての「ブックマーク」を持っておきましょう。
- 国内: 日本産科婦人科学会、日本産婦人科医会、厚生労働省、国立感染症研究所。
- 海外: CDC(アメリカ疾病予防管理センター)、WHO(世界保健機関)、ACOG(米国産科婦人科学会)。
ガイドラインの視点: ガイドラインがすべてを網羅するのを待っていては間に合いません。学会のホームページなどで随時更新される「最新の声明」をチェックする習慣をつけましょう。
5. 地域ネットワークの構築
パンデミック時には、病院単体で頑張るのには限界があります。
- 周産期ネットワーク: 「感染妊婦を受け入れる病院」と「健常な妊婦を守る病院」の役割分担を、平時から行政を交えて協議しておく必要があります。
- PEACEシステム: 学会が運用する大規模災害情報対策システムも、パンデミック時の情報共有に応用されます。
問題 医師国家試験レベル
問題1
パンデミック時の妊婦健診の対応として、適切でないのはどれか。
A. 感染状況に応じ、一律にすべての妊婦の健診回数を半分に削減する。
B. ICTを活用したオンライン診療を、対面診療の代替補完として検討する。
C. 妊産婦の精神面を考慮し、産後うつのスクリーニングを継続する。
D. 分娩時などエアロゾル発生のリスクが高い処置では、N95マスク等の高度な防御策を講じる。
E. 地域の医療体制の状況に応じ、妊産婦のリスクごとに柔軟に受診間隔を調整する。
【正解】A
【解説】 A:健診回数の削減は「個々のリスクや状況に応じて柔軟に対応」すべきであり、一律の削減は推奨されません。リスクを見落とす危険があるためです。 B・C・D・E:すべてガイドラインで推奨されている適切な対応です。
問題2
標準予防策(スタンダード・プリコーション)において、感染の可能性があるものとして扱わなくてもよいものはどれか。
A. 汗
B. 唾液
C. 胸水
D. 血液
E. 排泄物
【正解】A
【解説】 標準予防策では、血液、すべての体液(唾液、胸水、腹水など)、分泌物、排泄物、傷のある皮膚、粘膜を感染の可能性がある物質とみなします。ただし、「汗」は例外とされています。
まとめ
- 基本は「標準予防策」: すべての患者に対して、常に感染防止の意識を持つ。
- ICTを味方につける: オンライン診療や遠隔監視は、パンデミック時の「強力な武器」になる。
- 孤立させないケア: 物理的距離(ディスタンス)は取っても、心の距離は離さない。
- 情報の「目利き」になる: 学会や公的機関の一次情報を、誰よりも早くキャッチする。
パンデミック対応は、一時的なパニックではなく、継続的な「システムのアップデート」です。この経験を、将来の新興感染症に対する備えとして蓄積していきましょう。

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