序章:学会前夜、静けさの中のざわめき
学会の前夜というのは、どこか独特の緊張感があります。
大学時代の試験前夜にも似ていますが、あの頃よりも少し成熟した、しかし確実に眠りを浅くする種類の緊張です。
今回は第67回日本婦人科腫瘍学会学術講演会。場所は東京国際フォーラム。
学会での発表はこれが初めてではありませんが、それでも毎回、前夜になると「本当に大丈夫だろうか」という不安が頭をもたげます。
パソコンの画面には、最終調整を終えたスライド。
USBメモリにもバックアップ済み。さらにクラウドにもアップロード。
机の上には名刺ケース、腕時計、財布、そしてベルトを置いたスーツ。
玄関には折りたたみ傘を置き、「明日は雨だから忘れないように」と自分に念押し。
——と、完璧なはずの準備でした。
第一章:田舎暮らしと朝の空気
翌朝。目覚ましが鳴る前に、少し早く目が覚めました。
カーテンを開けると、空はどんよりとした灰色。湿った空気が部屋に流れ込みます。
テレビをつけると、ニュースキャスターが「線状降水帯接近の恐れ」と告げていました。
田舎暮らしの私にとって、最寄り駅までは車で20分ほど。
今日は妻が車で送ってくれることになっています。
「傘、持った?」と妻。
「うん、大丈夫」と答え、家を出発しました。
このとき、私は確かに傘を“用意”していました。しかし、“持って”はいなかったのです。
第二章:忘れ物、その一「傘」
車で走り始めて10分。信号待ちでふと足元を見た瞬間、気づきました。
「……傘、ない。」
一瞬、言うべきか黙っておくべきか迷いましたが、正直に告白。
「もー!」と軽くため息をつきながらも、妻はUターンしてくれました。
戻る道中、助手席の私は申し訳なさと情けなさで妙に背筋を伸ばし、外の田園風景を眺めていました。
たかが傘、されど傘。学会用のスーツでびしょ濡れになる未来を回避できただけでもよしとします。
第三章:忘れ物、その二「ベルト」
再び駅に向かい、ようやく改札口が見えてきたときです。
腰に微妙な“ゆるさ”を感じました。スーツのパンツが、ほんのわずかに下がりそうな不安感。
「あ、ベルト忘れた。」
それは、昨夜ちゃんとハンガーの上に置いていたはずのベルトでした。
忘れ物は一つ見つかると、なぜか芋づる式に出てくるものです。
妻に連絡すると、「娘の習い事が終わったら持っていく」とのこと。
発車まで2時間の空白が生まれました。
第四章:カフェと村上春樹
待ち時間を過ごすため、駅前のカフェに入りました。
コーヒーを注文し、カバンから取り出したのは村上春樹の最新作『街とその不確かな壁』。
本を開くと、現実のドタバタから少し距離を置けるような、不思議な安心感が広がります。
物語の中では、主人公が静かに街を歩き、見知らぬ人々や出来事と出会っていく。
その緩やかな時間の流れが、私の焦りを吸い取ってくれました。相変わらず村上春樹は文章のリズムがよい。
2時間後、妻がベルトを届けてくれました。
「もう忘れ物ない?」と聞かれ、「たぶん…」と答える私。
この“たぶん”が心のどこかで引っかかりましたが、今度こそ東京へ向けて出発です。
第五章:東京国際フォーラムの迷宮
新幹線を降り、東京駅から徒歩で東京国際フォーラムへ。
しかし、私はこの建物と相性が悪いのです。
前日、迷子になるのを防ぐために下見までしました。
それなのに、到着して数分後には「あれ?こっちじゃない…」と立ち止まる。
吹き抜けの広いロビー、天井から差し込む光、似たような廊下の繰り返し。まるで迷路です。
受付で場所を尋ねると、わずか5秒で答えが返ってきました。
昨日の下見は一体何だったのか……。
第六章:学会発表と小さな達成感
私の発表は午後。
緊張で手のひらが少し汗ばみます。スライドを映し、深呼吸をしてから話し始めました。
会場の空気が少しずつほぐれていく感覚。質疑応答では予想外の質問も飛びましたが、落ち着いて答えられたとき、胸の奥に小さな達成感が灯りました。
発表後、他のセッションやポスター展示も見て回りました。
分野は違えど、皆が同じ目標に向かって研究している熱気が、会場を満たしていました。
第七章:快晴と無用の傘
学会最終日、東京は快晴。
持ち歩いていた傘は、一度も開くことなくカバンの中で眠っていました。
しかし、不思議と後悔はありません。
むしろ、「もし降ったら…」という不安を抱えずに済んだこと自体が、安心感を与えてくれていたのかもしれません。
終章:忘れ物が教えてくれたこと
今回の遠征で学んだことは、ただの「忘れ物防止術」ではありません。
- 持ち物は声に出して確認すること
- 忘れ物は一度起きると連鎖しやすいこと
- そして、旅には余裕時間が必要なこと
何より、ドタバタの合間にも、自分を落ち着かせてくれる“ひととき”を持つこと。
私にとってはそれが、カフェで読む村上春樹の小説でした。
人生の旅路もまた、忘れ物や迷子がつきもの。
それでも、そんな小さな波乱があるからこそ、後になって笑える思い出になるのだと、今回の学会遠征でしみじみ感じました。
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