「定年退職をしたら一気に老け込んでしまうのではないか」 「仕事を辞めると社会との繋がりが消え、認知症のリスクが高まる」
そんな不安を耳にしたことはありませんか? 実際、日本を含め多くの先進国では「健康のために、できるだけ長く働き続けよう」という政策が進められています。
しかし、2024年に発表された最新の研究が、この常識を覆す驚きの結果を突きつけました。東京大学の佐藤豪竜氏らによる研究『Heterogeneity in the association between retirement and cognitive function: a machine learning analysis across 19 countries』です。
19カ国、約1万2000人のデータをAI(機械学習)で解析して分かった、定年退職と脳の健康の「真実」を詳しく解説します。
1. なぜ「退職=脳に悪い」という説が流れていたのか?
これまでの研究では、「退職すると記憶力が低下する」という結果もあれば、「むしろ良くなる」という結果もあり、科学者の間でも意見が分かれていました。
なぜこれほど意見が食い違っていたのでしょうか? そこには「見かけ上の数字」に騙されてしまう大きな罠がありました。
「脳が衰えたから辞めた人」の存在
単純な統計をとると、「退職した人」は「働いている人」よりも認知機能が低い傾向にあります。しかし、これは「もともと体調が悪かったり、認知機能が低下し始めたりしたから、仕事を辞めざるを得なかった」という人が含まれているからです。
今回の研究では、AI(因果フォレスト)と経済学的な手法を組み合わせることで、こうした「逆の因果関係」を丁寧に取り除きました。すると、驚くべき真実が見えてきたのです。
2. 結論:退職は平均的に「脳を若返らせる」
最新のAI解析が出した結論は、非常にクリアなものでした。
「定年退職をした人は、仕事を続けている人に比べて、記憶テストのスコアが平均して1.348語(標準偏差で0.42)も向上していた」
この「1.348語」という数字は、単なる誤差ではありません。公衆衛生学の基準では、教育支援などの介入を行っても「0.2」程度の差が出れば大きな成果とみなされます。つまり、退職による脳の活性化効果は、非常に強力なものであると言えます。
なぜ、仕事を辞めると脳が若返るのでしょうか? 論文では主に3つの理由が挙げられています。
- 仕事ストレス(Job Strain)からの解放:慢性的な仕事のプレッシャーは、脳の「海馬」という記憶を司る部位に悪影響を与えます。退職はこのストレス源を遮断します。
- 睡眠と生活の質の改善:通勤や締め切りから解放され、脳が休息できる時間が増えます。
- 健康への投資:仕事に使っていた時間を、運動や趣味、社交など「脳に良い活動」に充てることができるようになります。
3. 「退職の勝ち組」と「負け組」を分けるもの
この研究の最も画期的な点は、「退職の恩恵をフルに受ける人と、そうでない人の違い」を明確にしたことです。研究チームは、退職後のメリットの大きさを5段階(Q1〜Q5)に分類しました。
【Q5:退職で劇的に脳が若返る人】
このグループに属する人たちの特徴は、以下の通りです。
- 性別:女性
- 教育・資産:高学歴で、経済的な余裕がある
- 職種:事務職、専門職、あるいはパートタイムで働いていた
- 健康状態:退職前から健康で、定期的な運動習慣がある
- 国:デンマーク、ギリシャなど
【Q1:退職の恩恵をあまり受けられない人】
一方で、以下のような条件に当てはまる人は、退職しても脳の機能が維持されにくい、あるいは低下するリスクがありました。
- 性別:男性
- 経済状況:資産や収入が比較的少ない
- 職種:肉体労働、自営業、身体的負荷が高い仕事
- 健康状態:高血圧、糖尿病、うつ傾向など、退職前から複数の健康課題を抱えている
- 国:エストニア、フランスなど
4. 経済学モデルで読み解く「格差」の理由
なぜここまで差が出るのでしょうか? 論文では、経済学の「グロスマン・モデル」という考え方で説明しています。
退職すると、私たちは「お金」が減る代わりに「時間」を手に入れます。
- 余裕がある人は、手に入れた「時間」を使って、ジムに通ったり、バランスの良い食事を作ったり、知的な趣味を楽しんだりという「脳への投資」ができます。
- 余裕がない人は、手に入れた「時間」が、将来への不安や経済的なストレスに消えてしまい、脳への投資が難しくなります。
また、肉体労働をしていた人にとっては、仕事そのものが「唯一の運動」であった場合、退職によってその運動機会が失われることがマイナスに働く可能性も指摘されています。
5. 私たちが今日からできる「最強の退職準備」
この研究から学べる最も重要な教訓は、「退職後の脳の健康は、現役時代の過ごし方ですでに決まっている」ということです。
幸せなリタイア生活を送り、脳を若返らせるために、今からできる4つの準備をまとめました。
- 「仕事以外の運動習慣」を身につける 仕事で動くのと、自発的に動くのでは脳への影響が違います。今すぐウォーキングやスポーツの習慣を持ちましょう。
- 持病のコントロールを徹底する 高血圧や糖尿病を放置したまま退職を迎えると、退職後の恩恵が受けにくくなります。今のうちに数値を安定させましょう。
- 「時間」の投資先を開拓しておく 「辞めたら何をしようか」ではなく、今から趣味やボランティア、学習などのコミュニティに片足を入れておきましょう。
- 自分に合った「辞め時」を知る 今回の研究は、一律の定年延長が必ずしも正解ではないことを示唆しています。自分の資産状況やストレス度を見極め、柔軟にキャリアを設計することが大切です。
6. 最後に:人生100年時代の「引き際」のデザイン
これまでは「死ぬまで働く」ことが理想の老後の一つとされてきました。しかし、科学データは「適切なタイミングで仕事から離れ、自分自身をケアする時間を持つこと」が、私たちの脳を劇的に守る可能性があることを教えてくれています。
定年退職は「終わりの始まり」ではなく、「脳を再起動させるチャンス」です。
あなたが手にするはずの「自由な時間」を、不安で潰すか、脳への投資に変えるか。その鍵は、現役時代の今、あなたがどう過ごすかに握られています。
引用論文
Heterogeneity in the association between retirement and cognitive function: a machine learning analysis across 19 countries
著者: Koryu Sato, Haruko Noguchi, Kosuke Inoue
掲載誌: International Journal of Epidemiology (2024)

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