はじめに
「お金があれば幸せになれるのか?」──この問いに対する答えとして有名なのが、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンの研究です。彼によると、年収がある一定額(日本円で約800万円)を超えると、感情的幸福度の向上は頭打ちになる。この知見は多くの人に希望と現実を同時に突きつけました。
しかし、近年浮かび上がってきたのは、「幸福」ではなく「寿命」に対するお金の影響です。
2025年4月、『New England Journal of Medicine』に掲載された国際共同研究は、
まさにこのテーマ──資産(wealth)と寿命(mortality)の関連について、米国と欧州の大規模な比較分析を行いました。
米欧17カ国・7万人超、10年にわたる追跡調査
この研究は、米国の「Health and Retirement Study(HRS)」と、ヨーロッパの「SHARE(Survey of Health, Ageing and Retirement in Europe)」のデータを用いて、50〜85歳の高齢者73,838人を追跡。2010年から2022年までの10年間にわたって、資産と死亡率の関連を分析しました。
参加者の「資産」は、住宅を除いた純資産で評価され、各国・年齢層ごとに調整のうえ**4つの資産階層(四分位)**に分類。年齢、性別、学歴、喫煙歴、慢性疾患の有無なども考慮した統計モデルにより、全死因死亡率との関連が検証されました。
富が増えるほど寿命は延びる──でも、その“格差の幅”が違った
ハザード比で見る「資産と死亡リスク」
- 第2四分位群:死亡リスク20%減(HR 0.80)
- 第3四分位群:死亡リスク32%減(HR 0.68)
- 第4四分位群(最富裕層):死亡リスク40%減(HR 0.60)
つまり、最も貧しい層と最も豊かな層では、死亡リスクが1.7倍近く違うという結果です。
地域ごとの違い
- 米国では、富裕層と貧困層の“寿命格差”が特に大きい
- 北・西欧では、最貧層でも米国の富裕層に匹敵する生存率
- 米国の最貧層は、欧州のすべての地域のどの層よりも死亡率が高い
加えて、米国内でも地域差があり、中西部(Midwest)では寿命格差が最も大きく、西部(West)では比較的小さいという結果でした。
なぜ、アメリカでは「富と死」の差がここまで大きいのか?
この研究では、単に「資産」と「寿命」の統計的な関連を見るだけでなく、背景にある社会構造も考察されています。
◉ 教育、医療、環境、社会的ネットワークの差
- 米国では、富裕層のほうが大学教育を受けている率が高く、
喫煙率が低く、農村部の居住者が少ない傾向にあります。 - これに対して、欧州、特に北・西欧では、低所得層でも比較的教育水準が高く、医療アクセスが平等。
つまり、同じ“お金の少なさ”でも、生きやすさが違うということです。
◉ 「絶対的な金額」よりも「相対的な位置」の重要性
今回の分析は、資産の絶対額ではなく、国ごとの相対的な資産ポジションに注目しています。
これは「人は周囲との比較によってストレスや健康を左右される」という社会疫学的知見とも一致します。
「金持ち=長生き」は限界がある?
驚くべきことに、今回の研究ではアメリカの最富裕層の死亡率が、欧州の“最貧層”と同等かそれ以下であるという結果も示されました。
これは、単に社会保障の弱さだけでは説明できません。研究では、文化、環境、食生活、社会的流動性などが影響している可能性があるとされています。
つまり、富の多寡だけで寿命は決まらない。
社会全体の構造と文化が「長生きしやすい社会」を形づくっているのです。
幸福度と寿命、そして「足るを知る」という視点
冒頭に戻って、幸福度と寿命の話に触れましょう。
- 幸福度は「主観的な満足感」や「感情の質」に左右される
- 寿命は「社会的な支援」や「インフラへのアクセス」に左右される
つまり、幸福と長寿は必ずしも同じラインにはない。
けれども、自分の置かれた状況に「足るを知る」ことは、過度な競争やストレスから心と体を守る手段になるのかもしれません。
社会にとって、この研究が問いかけるもの
この研究は、「個人がいかに稼ぐか」ではなく、「社会がどれだけ公平な健康と長寿の機会を提供できるか」を問うものでもあります。
たとえば:
- 医療費の自己負担割合の見直し
- 公共医療・教育への投資
- 地域間の医療アクセス格差の是正
- 社会的つながりの再構築
こうした施策によって、“お金がない人でも健康で長生きできる”社会をどこまで実現できるかが、これからの課題です。
最後に:寿命と社会、そして私たち
この研究が突きつけたのは、「お金があれば長生きできる」という単純な公式ではありません。
むしろ、
人の寿命をどれだけその人の経済力から独立させられるか?
という、社会そのものの在り方への根源的な問いです。
私たち一人ひとりがどこに満足を見出すかと同時に、
社会がどこまで“生きやすさ”を平等に保証できるか──今こそ、真剣に考えるべき時に来ているのではないでしょうか。
参考文献
- Kahneman, D., & Deaton, A. (2010). High income improves evaluation of life but not emotional well-being. PNAS, 107(38), 16489–16493.
https://doi.org/10.1073/pnas.1011492107 - Machado, S., et al. (2025). Wealth and Mortality in the United States and Europe. NEJM, 390(14), 1335–1346.
https://doi.org/10.1056/NEJMsa2408259

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