〜JAMA Network Open 2025年論文から考える、医師が空でできること〜
はじめに:空の上で起こる「医療」
あなたが国際線の機内でくつろいでいる時、
「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか?」
そんなアナウンスが流れたらどうしますか?
医師や医療者であれば、一度は想像したことがあるでしょう。
飛行機内という特殊な環境で、急変した患者を前にしたとき、自分に何ができるのか。
近年、商業航空の利用者数は世界で年間約50億人に達しようとしています。
それに伴い、「機内での医療トラブル(in-flight medical event)」も確実に増加しています。
このたびJAMA Network Open(2025年9月号)に掲載された論文
“In-Flight Medical Events on Commercial Airline Flights”
は、これまでで最大規模の77,790件の機内医療事例を解析した画期的な報告です。
この記事では、その内容を医療者の視点でわかりやすく解説します。
1. どのくらいの頻度で起こるのか?
この研究では、84の航空会社から報告された
77,790件の機内医療イベント(IME: In-Flight Medical Event)を解析しています。
結果として得られた頻度は以下の通りです。
- 搭乗者100万人あたり39件
- およそ212フライトに1件
- 10億人キロあたり17件
つまり、「1日約5000万人が飛ぶ現代社会では、毎日数百件の機内医療トラブルが起こっている」計算になります。
想像以上に高頻度といえるでしょう。
2. どんな人が、どんな症状で?
患者の年齢中央値は43歳(IQR 27–61歳)、女性が54%を占めました。
思ったよりも高齢者ばかりではない点が興味深いです。
最も多かったのは:
- 神経系トラブル(41%)
- 循環器系トラブル(27%)
- 呼吸器系、消化器系、アレルギー反応も一定数
軽症例が多いとはいえ、脳卒中疑い・急性冠症候群・意識障害などの重症例も報告されています。
こうしたケースでは、機体の緊急着陸(diversion)が検討されます。
3. 緊急着陸(diversion)はどのくらいあるのか?
全体の1.7%(1333件)で緊急着陸が行われていました。
特に着陸に至りやすい要因は:
| 要因 | 調整オッズ比 (AOR) | 95%信頼区間 |
|---|---|---|
| 脳卒中疑い | 20.35 | 12.98–31.91 |
| 急性心疾患 | 8.16 | 6.38–10.42 |
| 医師ボランティアの介入 | 7.86 | 4.49–13.78 |
つまり、「脳卒中や心疾患を疑う場合」「医師が介入した場合」ほど、
航空会社は緊急着陸の判断をしやすい、という結果でした。
4. 機内での医療対応:何ができるのか?
機内では当然ながら、設備も薬剤も制限されています。
最も多かった処置は:
- 酸素投与:40.8%
- 機内救急医療キット使用:22.9%
- 鎮痛薬・制吐薬の投与:それぞれ約15%
心停止やショックといったケースではAEDの使用も想定されますが、
この報告では詳細な救命処置の記録は限られています。
それでも注目すべきは、約3分の1(32.9%)の症例で医療者ボランティアが関与していた点。
そのうち医師が約2万人分(20.1%)を占めていました。
5. 医師ボランティアの関与:吉か凶か?
意外な結果として、「医師ボランティアの関与」が緊急着陸のリスクを上げていたことが示されました。
なぜでしょうか?
- 医師が介入する=重症例である可能性が高い
- 医師の診断によって、航空会社が安全を優先して着陸を選ぶ
- 医師の存在が「判断の裏付け」になる(心理的バイアス)
実際、この研究では、医師が対応したケースで約55%が着陸に至っていました。
「助けに入った結果、飛行機が降りる」——現実的なジレンマです。
6. 着陸後の転帰と死亡率
着陸後、病院へ搬送されたのは7.7%(5959件)。
また、死亡例は312件(0.4%)報告されました。
死亡者の年齢中央値は69歳と高く、
多くは循環器・神経疾患によるものでした。
興味深いことに、死亡例の約79%に医療ボランティアが関与しており、
現場では可能な限りの介入が行われていたことがうかがえます。
7. 飛行距離とリスクの関係
フライト距離別に見ると:
- 中距離(1500–3999 km)と長距離(4000–12,000 km)で過半数
- 短距離ではわずか6.3%
やはり、飛行時間が長いほどイベント発生率が上がる傾向にありました。
脱水、低酸素、長時間の座位による静脈血栓などがリスク因子となります。
8. これまでの報告との比較
過去の代表的研究(Petersonら, NEJM 2013)では、
機内医療イベントは搭乗者100万人あたり16件と報告されていました。
今回の値(39件)は2倍以上。
これは、
- データ収集体制の拡充(衛星通信・グローバルデータベース)
- 航空利用者の増加と高齢化
- 医療支援センター(MedAireなど)の整備
といった要因による「実態の把握が進んだ」結果と考えられます。
9. 医療者としての備え:空でどう動くべきか?
この論文が示すメッセージは、「誰にでも起こりうる」ということ。
そして、機内で助けを求められる医療者が増えているという現実です。
もし呼び出しに応じる場合、最低限以下の点を意識しましょう。
医師ボランティアが対応する際の心得
- 身分を名乗り、免許証を提示(パスポートと一緒に)
- 客室乗務員と連携し、現場の安全確保
- 酸素・AED・救急医療キットの場所を把握
- できる範囲でバイタルサインを確認
- 地上の医療支援センター(MedAireなど)と連絡を取る
- 診療記録は必ず残す(誰が、いつ、何をしたか)
また、救護中のトラブルに対しては、多くの国でGood Samaritan法が適用されます。
ただし国際線では、航空会社の登録国法が優先される点にも注意が必要です。
10. 航空会社・政策側の課題
本研究の意義は、単に「多い」「危険」だけではありません。
航空業界・政策決定者にとっても重要な示唆を与えています。
- 乗務員の医療トレーニングの標準化
- 医療キット内容のアップデート(抗ヒスタミン薬や血糖測定器など)
- AIを活用した遠隔医療支援
- 国際的なデータ共有体制の構築
特に、「diversion(緊急着陸)」は運航コストが極めて高く、
1回あたり数千万円規模の損失につながることもあります。
そのため、医学的根拠に基づく判断支援システムが今後ますます重要になるでしょう。
11. 今後の研究・臨床教育への応用
この論文は、単なる疫学報告にとどまらず、
「限られた環境下での医療」=災害・離島・宇宙医学との共通点を示しています。
たとえば、
- 酸素・AED・少量薬剤でどこまで対応できるか
- バイタルサインや意識レベルを迅速に評価するスキル
- チームコミュニケーション(非医療者を含む)
こうした能力は、研修医教育やBLS/ACLS訓練にも通じるものです。
12. まとめ:空の上でも“臨床の基本”は変わらない
- 機内医療イベントは212フライトに1件と、意外に多い
- 神経・心疾患が中心で、約2%が緊急着陸
- 医師ボランティアは全体の約3分の1を占める
- 酸素投与・応急処置が中心だが、判断は命運を分ける
- 「空でも、医療の原則は地上と同じ」
飛行機という“閉ざされた空間”であっても、
医師の判断と行動が一人の命を救う可能性があります。
次に空を飛ぶとき——
あなたがその場にいたら、何をするか。
この論文は、その問いを私たちに突きつけています。
参考文献
Alves PM, Kumar KR, Devlin J, et al. In-Flight Medical Events on Commercial Airline Flights. JAMA Network Open. 2025;8(9).

コメント