子どもの頃、スーパーファミコンの画面の前で、私はひとつの選択肢に長く指を止めていた。
「魂をロボットに移しますか?」
――はい いいえ。
この質問を前に、私はなぜだか戸惑った。
物語の主人公ネスたちは、地球の危機を救うため、過去へ向かわなければならない。だが、タイムトラベルでは生命体をそのまま送り出すことはできず、魂をロボットに移すしか方法がないという。
博士の説明を聞くネスたちは、何のためらいもなくうなずき、プレイヤーである私はその決意を「はい」で受け入れる。だが、その瞬間、胸の奥に小さな違和感が残った。
どうして自分は迷ったのだろう。ゲームの中の話なのに、なぜ“嫌だ”と感じたのだろう。
子ども心にも、魂を機械に移すという行為が「取り返しのつかない何か」であるように感じたのだと思う。
それは単にゲーム上の選択肢ではなく、「人間であること」を手放すような感覚だった。
■ 万博の展示で蘇った記憶
2025年の秋、ついに閉会を迎えた大阪・関西万博。
久しぶりに訪れた会場の余韻の中で、私はふと、ある展示のことを思い出していた。
「あなたの記憶をロボットに移します」――
そんなテーマを掲げた未来館のブースだ。
来場者が自分の記憶の断片や音声、映像、文章をAIに読み込ませると、それを学習したヒューマノイド型ロボットが、自分そっくりの話し方で語り出す。
「これは私の考えではなく、私の“記録”なのです」
ロボットはそう言って微笑む。
展示の解説によれば、脳波や表情、声のトーン、SNSでの発言などを統合して個人の“思考の傾向”をAIが再現しているのだという。
つまり、そこに立っているのは「私のように話すが、私ではない」存在。
会場の人々はスマートフォンを構え、感嘆の声を上げていた。
「すごい、まるで本人みたい」
「これが未来の自分かも」
私は人波の後ろで立ち止まり、しばらくその光景を見つめていた。
――魂をロボットに移しますか?
ふと、あのスーパーファミコンの画面が脳裏に浮かんだ。
25年前のあの「はい」。
あのとき感じた得体の知れない違和感が、再び身体の奥で疼いた。
■ 「最低国」――名前のない場所
MOTHER2のラストダンジョン「最低国」。
この地名は、実はゲーム中では一度も登場しない。
地図にも記されず、攻略本で初めてその名が知られる。
あまりにも遠く、現実から隔絶された場所。
そこは、現代と過去の狭間にある“名づけられない場所”だ。
ゲームの設定を読み返すと、この「最低国」は二つに分かれているという。
現代の最低国と、過去の最低国。
現代の方は地底大陸から繋がる飛び地で、そこからさらに進むには「スペーストンネル2」を起動させなければならない。だが、そのトンネルに乗った瞬間、もう後戻りはできない。
つまり、ネスたちは“帰る保証のない旅”に出るのだ。
過去の最低国は、さらに奇妙だ。
無機質な構造物が漂い、生物のようなものが蠢く異様な空間。
回復ポイントも補給所もなく、敵を倒しながら進むしかない。
やがて、洞窟の奥に到達したネスたちは、最深部で“存在そのものが歪んだ何か”――ギーグと対峙する。
あの静寂の中に漂う絶望感と、プレイヤーが操作しているにもかかわらず、どこか“祈るしかない”ような無力感。
それが、私の記憶に焼きついている。
■ 「はい」としか言えなかった選択
ゲーム上の選択肢としては、「はい」を押さなければ物語は進まない。
だが、その“強制された同意”に、当時の私は強烈な印象を受けた。
あの場面で「いいえ」を選んでも、博士は静かに諭し、結局プレイヤーは「はい」を選ばされる。
つまり、拒否できない選択だ。
医師になった今、あのシーンを思い出すたびに感じるのは、
それがまるで、医療現場で患者が「はい」と言わざるを得ない状況に似ているということだ。
患者は説明を受け、選択を委ねられる。
「手術を受けますか」「治療を続けますか」――たしかに“選択肢”はある。
だが、実際には多くの人が「はい」と言うしかない。
恐怖と希望の狭間で、“最善”を信じるしかないのだ。
MOTHER2のあのシーンは、まるでその縮図のように感じる。
命のために、ロボットになることを受け入れる。
それは、ある種の「祈り」でもある。
■ 命と機械の境界で
私はいま、医師として、生命と機械の間に立っている。
人工呼吸器、心拍モニター、ECMO。
どれも患者の命を支える“機械”だが、そこに宿っているのは人間の技術と祈りの結晶だ。
それでも、機械は魂を持たない。
その事実を、現場では何度も突きつけられる。
たとえば、心臓が止まり、モニターの波形が平坦になった瞬間。
「まだ温かいのに」と誰かが言う。
しかしその温かさは、もう“生きている”ことを意味しない。
魂の抜けた身体は、どれほど整っていても“生”ではない。
MOTHER2のネスたちは、魂をロボットに移した。
私はそれを、あの頃はただのSF的設定として受け止めていた。
けれど今、あの描写の意味がわかる気がする。
魂を失った存在は、どれほど強くても、人ではない。
■ AI時代の“魂”とは
現代では、AIが文章を書き、音楽を作り、画像を生成する。
それは、かつて夢見た“知性ある機械”の姿だ。
だが、私はどうしても時折、薄い違和感を覚える。
AIが描く絵、AIが紡ぐ言葉――
それらはたしかに精巧で、驚くほど人間的だ。
けれど、どこか「温度」がない。
万博で見た“自分の記憶を再現するロボット”もそうだった。
その声のトーンも、口調も、姿勢さえも私たちに似ている。
だが、そこには“ためらい”も“痛み”もない。
AIは疲れず、迷わず、間違えない。
けれど人間の魅力とは、むしろその“ためらい”や“揺らぎ”の中に宿るものではないだろうか。
言い換えれば、迷えることこそが魂の証なのかもしれない。
■ 「最低国」は私たちの未来かもしれない
帰れる保証がない。
それでも進まなければならない。
この構造は、いま私たちが向かうAI時代のメタファーのようでもある。
私たちは技術のトンネルを通り抜け、もはや後戻りできない地点に立っている。
機械と共に生き、情報と融合し、身体の限界を超えようとしている。
けれどその先に待つのは、「魂のある知性」なのか、「魂のない進化」なのか。
MOTHER2が発売された1994年当時、そんな未来を予感していた人は少なかっただろう。
だが、糸井重里が描いた“ギーグ”という存在は、人間が生み出した“無意識の悪意”のようにも見える。
純粋な理性が、感情を失ったときにどうなるのか。
人間が「神のような知性」を作り出したとき、そこに宿るものは善か悪か。
最低国の無機質な風景は、まるで現代のサーバールームのようだ。
冷たい光、音のない空間。
データの海に漂う“意識の断片”。
ネスたちのロボットの体は、もしかすると今のAIの象徴だったのかもしれない。
■ 終章:「はい」と言いながら進む
子どもの頃、私はただ「はい」と押した。
理由も分からず、進むしかなかった。
けれど今思うと、あの選択こそが“生きる”ということの象徴なのだと思う。
私たちはいつも、完全に理解しきれないまま選んでいる。
進むことが正しいのかどうかも分からずに、それでも「はい」と言って前に進む。
科学の進歩も、AIの進化も、きっと同じだ。
戻れない旅の途中で、私たちは何を失い、何を守るのか。
魂をロボットに移しても、
もしその中に“祈り”が残っているなら、
それはまだ、人間の物語なのかもしれない。
MOTHER2のエンディングで、ネスたちは確かに帰ってきた。
けれど、それが“同じ魂”だったのかは分からない。
それでも彼らが帰ってきたと信じたい――
あの小さな「はい」に込められた祈りは、
きっと今もどこかで、生き続けているのだと思う。


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